子どもの行為すべてを「表現」として見る——井桁容子×佐伯胖 #保育アカデミー
「なぜ大人は、子どもを型通りに育てようとしてしまうの?」
「子どもが“わかる”って、どういうこと?」
過去2回の『保育アカデミー』で、保育者の姿勢を根本から問い直してきた佐伯胖先生(認知心理学者)と井桁容子先生(乳幼児教育研究家)。
<秋の保育アカデミー:“想定外”を楽しむ保育者に。「◯◯主義」から抜けだす子どもへのまなざし>
<冬の保育アカデミー:子どもが“世界をわかる”力から、大人はなにを学ぶか>
「子どもの表現」がテーマとなった今回のアカデミーでは、「子どもの行為を『表現』として見ること」という内容で、3回目となる2人の対談が実現しました。
どうすれば、子どもたちが自分の訴えを諦めずにすむか。「問題は大人のほうにあるのでは?」と話す井桁先生に、今回も佐伯先生が新しい視点を提示していきます。
(この記事は、2021年5月『春の保育アカデミー』(主催:大友剛)のオンライン講義の内容を、メディアパートナーとしてベビージョブ編集部が再構成したものです)
子どもの表現は「大人の問題」
井桁「子どもの行為を『表現』として見る」は、これまで私が保育でこだわってきたことの一つです。自分の考えを振り返る機会が今回いただけて、すごくありがたいと思っています。
よく「絵の具を使う」「楽器で演奏する」「踊る」といった形で子どもの表現を捉えたりしますよね。でも本当は、子どもたちって生活のなかで、「どんなものでも表現として自分に活用したい」と思っているように私は感じるんです。
そして、子どもはいつもいろいろなものや方法で、自分のなかにある何かを伝えようとしているんじゃないか。何かを訴えているのではないかと、ずっと思ってきました。
井桁佐伯先生とお話するにあたって今の『保育所保育指針』を振り返ってみると、いくつか気づくことがあります。
まず保育の内容(2章)の『乳児』のところには、実は「表現」という大きな項目は設けられていないんです。その代わりに、「健やかに伸び伸びと育つ」「身近な人と気持ちが通じ合う」「身近なものと関わり感性が育つ」の3つで整理がされている。
それが『1歳以上3歳未満児』になってやっと、「健康」「人間関係」「環境」「言葉」と並んで「表現」の項目が出てきます。『3歳以上児』も同様です。
(2)ねらい及び内容 — オ 表現
感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して、豊かな感性や表現する力を養い、創造性を豊かにする。
井桁ここでちょっと引っかかるのは、「養う」の言葉です。私はいつも、子どもってそこにいるだけで自ずと表現しているし、存在そのものが表現なんじゃないかと思うんですね。でも「養う」となると、絵画や音楽などにおける違った視点が何かある気がします。同じ表現という言葉だけど、どう使い分けたらいいのか。
もう一つ気になったのは最後の部分です。長年子どもたちとお付き合いするなかで、その「創造性」には私自身何度も驚かされてきました。なので、「豊かにする」というよりも“すでにあるものを邪魔しない”って感覚のほうが私は強いんです。みなさんはどうでしょうか。
井桁私はおもちゃの遊び方の違い一つとっても、「自分は人と違う捉え方をしてるんだ」ってことを、子どもが表していると考えています。だけど傍にいる大人が見つけてくれなければ、その表現は最初から“無かったこと”にされてしまう。
あるいは、自分の思いを表すのに消極的な子もいますよね。部屋の隅でずっと先生を見ているから「◯◯ちゃん抱っこさせて」って行くと、口では「イヤだ」って言いながら、実際は崩れんばかりの笑顔を見せてくれる子どももいる。でも、そうやって隅っこにいる人にも、感情を表せないわけがちゃんとあると私は思うんですね。
保育者に必要なのは、それら内側にある思いも含めて「子どもが本当に表現できてるかどうか」を確認するまなざしです。だとすると保育における表現は、子どもではなく「大人の課題」として見たほうがいいんじゃないかと私は考えています。
井桁もう一つ、「泣く」という表現にも触れさせてください。よく「泣かなくていいから」なんて言う保育者がいますが、私は生きていくなかでのネガティブな感情はすごく大切だと思っています。
そして、その表現にとても敏感なのが子どもです。例えばある子が悲しくて泣いていたときに、別の子どもがいろんなものを次々持ってきたことがありました。よく見るとぜんぶ同じ色で、それは泣いている子の好きな色だった。「こんな悲しみの受け止め方があるんだ」と私は本当に驚いて、子どもが他者の感情に応える力を持っていることに改めて気づかされました。
なので私は、保育指針の「感性や表現する力を養い、創造性を豊かにする」ってやっぱり保育者のすべきことのように思うんですね。それができれば、子どもの表現は自然に満たされるんじゃないかと考えているんです。
『どうなんだろう=DND』で読み取る子どもの表現
佐伯井桁さんの話には、大事な指摘がたくさん含まれていました。私なりにそれを少し解説してみたいと思います。
まず「子どもたちは十分に表現しているではないか」という訴え。これはよくある表現論——何か素敵な作品をつくれるようになったり、みんなが賞賛できるようなものを表せたりすることを表現と捉える考え方——に対して、そうじゃないんだと。すでに「表れている」じゃないかと井桁さんは言うわけですね。
佐伯実はこの「表れる」という言葉は、一般的な『能動態』的(主体となって何かをする)動詞、『受動態』的(受け身となって何かをされる)動詞のどちらでもありません。
「自然に」わき起こってくる事態を「あえて」取り上げる、という2つの側面を持った、『中動態』的動詞と言われるものです。
何かが「表れる」ときには、そこに「もう表さずにはいられない」大切なものがある。けれどそれは、何気なく外に出ていくのではなく、出すことを自ら承認したうえで「誰かと共有したい」と訴えているものなんです。
佐伯で、そこから実際に子どもが何かを表現していく過程では、「どうなんだろう」と自分なりに知ろうとする気持ちが動きます。これを私は“DAI語”(タレントのDAIGOさんが略するときの言葉)ふうに、『DND』と呼んでいます。
DNDのなかには、やってみたい思いと、出てきたものを眺めてみたい思いが行ったり来たり働いています。「自分がどう見えるか」だけじゃなく、「他の人にどう見えるか」という期待も混ぜこぜになっての「どうなんだろう」なんですね。
このとき、子どもは自分なりに思っていたものを「こうなったんだよ」と見せたいし、それが通じて認められることをすごくうれしいと感じます。だから、大人がDNDをいかに読み取るかが大切になる。「応じる」ことこそが表現にとって重要であり、それは「育てる」などという話ではないんですよ。
佐伯さらに、「泣く」という子どもの表現にも井桁さんは触れています。泣いてる子どもは、「自分が泣く思いをしている」ということを内側から出さずにはいられないわけです。それを表したときに「誰かが受け止めてくれる」ことを期待もしている。そして実際に、他の子どもたちがそれを受け止めていたんですね。
これはすごいことですよ。「泣かなくていいよ」と言ってるのではなく、「泣いてる気持ちがわかるよ」と伝えて、いろんな方法で訴えに応じている。言い換えれば、「人の行為を表現として見る」ことが子ども同士の中ではもうできている、ということです。
その意味でも、表現は「育む」などといって上から与えるものではない。むしろこちらが子どもたちに頭を下げて学ぶべきものなんです。子どもの訴えに応じられるように、大人一人ひとりが「どう自分を開いていくか」という話なのだと思いました。
わき上がる思いと、人への期待が「訴え」になる
井桁私は保育者として、「子どもの姿をどう見たか」ということはずっと語ってきました。それ以上の意味づけを自分ですることは、何だかおこがましくてあえてそっとしていたんです。
でも本当は、相当なことを毎日やっているはずの子どもたちが「未熟な人」とただ思われて、最初から持っていた表現を“無いこと”にされている気がしていました。大人好みの表現を身につけたときにだけ「すばらしい」と言われちゃうのが、もったいないなと感じていて。
今回、佐伯先生がそこに光を当ててくださって、すごくうれしく思ってるんです。
井桁私の一番の大発見は、『中動態』という言葉の考え方でした。保育のなかで「誰が教えた」とか「いつからできるようになった」とか線を引かれることがたくさんあるんですけど、それにずっと抵抗があって。もっと行ったり来たりしている曖昧な部分に、重要なものがありそうだと思っていたんです。
佐伯「表れる」は受け身のようでありながら、人に見てもらおうと外に出していく点では能動的でもある。中動態の動詞は、そうやって「起きる事態」に「行動した人」自身が巻き込まれていくものなんです。
これって実は子どもの「遊ぶ」も一緒なんですよ。その場でわき起こってくる事態に積極的に関わるんだけど、その積極性というのは「自分を開いて巻き込まれていく」ことなんですね。
井桁保育や教育の世界に、そういった世界はいっぱいありますよね。
佐伯あります。自分の思いだけで行動してるのではなく、そこに「他人がどのように応じてくれるか」という期待と願いが込められて、表現としての「訴え」となる。子どもの行為は、何かしらそういった両面性を持っていると思います。
井桁人は一人で生きてるんじゃなくて、自分の表現を他の人が心を開いて待っていてくれるし、自分も相手の話を聞こうと考える。子どもたちは生まれたときから、その中動態的な感覚を持っているんじゃないかと思うんです。
なので、例えば「新生児模倣」(生後間もない新生児が舌出しなど他者の動きを模倣する現象)も、私は本当は「訴え」じゃないかと感じていて。
佐伯私もあれは衝動で真似ているわけではないと解釈しています。詳しくは『驚くべき乳幼児の心の世界』(ヴァスデヴィ・レディ著、佐伯胖訳:ミネルヴァ書房)に書いてありますが、舌出し模倣の本当の意味は大人の舌だしを「あいさつ」として受け止めた赤ちゃんの「あいさつ返し」であり、人と人との「お付き合いの始まりを期待している」のではないかと。ただ、これを読み取るのはなかなかすごいことですよ。
井桁園で生後57日のお子さんをお預かりしたことがあったんですけど、働きかけのあと3秒くらい待つとやっぱり反応が返ってくるんです。こちらが「おはよう」「そうなのね」と話して赤ちゃんが「うー」「あー」と返す、これを繰り返すとだんだん興奮してくる。
佐伯応答があるんですね。
井桁でも、大人は自分たちが慣れたテンポで表現が戻ってこないと、つい「わかっていない」と考えてしまう。子どものなかに、マナーとして表現を返すようなものが組み込まれていることを、もっとみなさんに気づいてもらえたらと思っています。
満たされていなければ、「お役に立とう」とは思えない
井桁それから先生、さっきの話のなかで『DND』という言葉をつくられていましたね(笑)。
佐伯そうですよ。あのDAIGOさんのDAI語をもじった、私の造語です(笑)。
井桁おもしろいなぁと思ってお聞きしてたんですけど、保育用語に入れないといけないくらい実はDND、「どうなんだろう」の視点って重要ですよね。
佐伯DNDにはさらに2つ、子ども自身が「どうなんだろう」という思いでさまざまなことを試みることと、大人がそういう子どもたちを「どうなんだろう」という思いで見ることの意味が含まれています。
後者は「こちらの思い通りかどうか」を見るのではなく、「子どもの内面で何が今起こっているのか」を読み取る視点ですね。
井桁部屋の隅でみんなをずっと見ているような子にも、その表現でわかってほしい何かが必ずありますよね。もう人が生きていること自体に「どんな表情でいるか」「たたずまいでいるか」という表現があって、それは上手下手では評価できないと思うんです。
佐伯出ている訴えを読み取ることを忘れ、積極的に、能動的に表れたものだけを「表現」と捉える勘違いを多くの大人がしています。でも、実は子ども同士はちゃんと、「そうせざるを得ない思い」と「読み取ってもらえるかもという期待」が行ったり来たりしていることをわかってるんですよ。
井桁記録を丁寧に見ていくと、0歳児のわかり方ってすごいなと思うことがありますね。お友達が泣いているときに、その子の痛みをわかろうとさまざまな行動を取る。とにかく受け止めて、お役に立とうとするんです。
ただそのとき注意がいるのは、それぞれの子どもたちが「自分を受け止めてもらえる」環境にないと、他の人の表現を受け止めてお役に立とうと思えないことです。生理的なものも含めて満たされていなければ、「他の人の嘆きがうるさい」と思う人になってしまう可能性もあります。
乳児保育で「大人が絶対に必要」とされる意味は、ここにある。それを0歳のうちから「集団保育」と見て、一人ひとりの表現をおさえてしまうのって私は本当に怖いと思うんです。
佐伯大人の責任とは、表現しているものに応じてあげられることだと思います。DNDが先になくて、何かやってあげる「べき」ことで応じたら、それは子どもたちがかわいそうです。
DNDで関わってみたら想像と違うこともあるかもしれないけど、それもまた何かの訴えをしているわけです。これを無視することがあまりにも世の中で広まっているので、何とかしなくてはと感じています。
表現を“諦めない”ためにできること
井桁保育者をやりながら、私はこれまでに「表現を諦めてしまった」とわかる子どもをたくさん見てきました。
自我が育つ0・1・2歳は、他者とうまく絡み合いたいのにズレが起こります。そのとき自分の表現を諦めなかった子どもは、手こずりながらも保育のなかに巻き込んで行ける。でも、いろいろなことがわかってしまう子は、そこで「無理だな」って答えを出しちゃうんです。
その諦めちゃった人たちの無力感の目が、もう悲しすぎて。
佐伯DNDの欠如した対話のなかで、子どもが大人に合わせてしまっている。そのことに気づいてほしいんだけど、「こちらの話が伝わった」と勘違いするケースが多いんですね。
井桁保育指針にある「一人ひとり」という言葉を説明するとき、私は「“一人残らず”の意味ですよ」って必ず言うようにしているんです。“一対一”と間違える人がいるんですけど、誰一人こぼさないってことですよと。
もちろん神様ではないし、残らず100%なんて実際はできないかもしれない。だとしても、そこに命がある限り「DNDで確認する」癖をつけておくことが、大人の間違いを少なくするかなって思います。
佐伯「統制のとれた集団をつくるのが保育者の腕」という風潮が園のなかで広がると、大人もやりやすいんですよ。そうなると、一人ひとりなんてきれいごとになってしまって、「みんな」の意識でがんじがらめになってしまう。
そうじゃない世界があることも、井桁さんのように子どもを見ればわかるんです。とにかく訴えながら、実践を積み重ねるしかありませんね。
井桁それをずっと突き詰めたときに、保育者養成で大事なことは「自分も表現してみたら楽しかった」って思いを体感させることだと考えたんです。学生のなかにも表現を諦めてきた人がやっぱり多くて、「あなたはどう思う?」って聞いても「分かりません」って返されることがよくあったんですね。
そこで、ある90分の授業のなかでルールを決めて、「自分がこれまで生きてきて心を動かされたことを、何でもいいから交代で3分ずつ話していく」ような場をつくったんですよ。
佐伯それはいいですね。
井桁そしたらもう、授業が終わる頃にはみんな号泣なんです。レポートには、「自分の感動を人に表現する大切さを知った」といった言葉が並んで、さらに「子どもの表現を大切にする人になりたい」ということも書いてくれて。そこでの経験を、保育者になったときに生かそうと考えてくれることが、すばらしいなと思いました。
でも、そうやって自分を表現するって、本当はみんな乳児期からしていることなんです。したがっているし、受け止めてもらいたがってる。なのにいつしか「出しても無駄だ」と諦める人が、すごく増えてきた気がするんですね。
私はそういったことを何とか早く減らしたい。特に生まれて間もない子どもたちに、「大人に表現してもわかってもらえない」という思いを味わってほしくないなと考えています。
佐伯表現をずっと無視されながら育ってきてしまった現状がある。それを改めて取り戻すことをしないと、保育はよくならないということですね。
今日はいい話をいただきました。ありがとうございました。
※ 90分の対談内容から、佐伯先生と井桁先生のメッセージを記事として再構成しました
- 講師:井桁 容子(いげた ようこ)
- 乳幼児教育研究家。非営利団体コドモノミカタ代表理事。2018年3月まで42年間、東京家政大学ナースリールームにおいて0〜3歳児の保育の実践と研究に従事。現在は講演などを通じて、日本の子どもがおかれる環境の質の底上げに尽力中。NHK教育「すくすく子育て」に出演。著書に「0・1・2歳児のココロを読みとく保育のまなざし」など多数。
- 講師:佐伯 胖(さえき ゆたか)
- 認知心理学者。信濃教育会教育研究所所長、東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。慶應義塾大学工学部卒業後、ワシントン大学大学院を修了。認知科学の立場から子どもの学びを研究。著書に「「学び」の構造 」「幼児教育へのいざない」など、共著に「子どもを「人間としてみる」ということ」など多数。
- 企画・主催:大友 剛(おおとも たけし)
- ミュージシャン&マジシャン&翻訳家。「音楽とマジックと絵本」で活動。NHK教育「すくすく子育て」に出演。東北被災地に音楽とマジックを届ける『Music&Magicキャラバン』設立。著書に「ねこのピート」「えがないえほん」「カラーモンスター 」など多数。YouTubeで発信中。
<『春の保育アカデミー』の続編となるセミナー『夏の保育・教育アカデミー』が、2021年8月に開催されます(Peatixにて受付中)。10名の講師による8講座、すべての講演で見逃し配信に対応。団体申し込みの場合は臨時職員・保護者への無料招待つき。詳しくは下記サイトをご覧ください>
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